essay

迷惑な遠慮

 「ひとに迷惑がかからないように遠慮しましょう」とは言うが、「ひとに迷惑がかかるから遠慮するのはやめましょう」というのはあまり聞かない。あまり聞かないが、そんなことを言いたくなるようなことが最近よくある。

 日本人は遠慮する。遠慮は日本の文化だ。海外へ行くと、それはよく感じることだ。そのせいで、結局なにが言いたいのかよくわからないと言われたり、誤解されて仕事が思い通りに進まないことも少なくない。でも、きれいな遠慮は、マナーであり、コミュニケーションであるのだから、大事にしたい文化のひとつではある。

 駅のホームやエレベーターの前では、並ばなければならないことがよくある。並ぶことができない中国人や、並ぶ必要がないほどひとが少なかったりお互いにきちんと譲り合うヨーロッパと違って、日本ではそれが規則であることのようにきちんと並ぶ。マナーではなくルールを守る国なのだと思う。
 しかし最近、並ぶには並ぶのだが、あまりきちんと詰めて並ぶと他のひとに対して感じが悪いという遠慮や、なんとなくみんながあいまいに並んでいるので自分だけが整然と並ぶのはいかがなものかという遠慮からか、並んでいるのか並んでいないのかわからないくらいその列とも言えない列が広がってしまっていることが多い。このせいで、ホームを歩くひとや、エレベーターに並んでいないひとの道をふさいでしまう。遠慮という美意識があるのであれば、どうしてもっと広い範囲への迷惑を考えて詰めて並ぼうという意識が働かないのか不思議だ。まさに遠慮が迷惑になってしまっているのである。

 若いころから僕は「もう少し遠慮したら?」とよく言われた。マナーは大事にするが、よけいな遠慮があまり好きではない。みんなで遠慮しあっていて、いっこうに物事が進まないことは大嫌いだ。ひとによって、それは図々しく感じるのかもしれないし、いやなヤツと思うのかもしれない。でも、最近は「うまいことやる」方法もわかってきた。押したり引いたり、おだてたりときにはガツンと言ったりしながら、うまくみんなとコミュケーションを取るらなければならない。そんな年齢なのかもしれない。
 ひとに迷惑をまったくかけずに生きていくことなんてできない。多少なりとも迷惑をかけて生きていくものだが、それでもなるべく迷惑をかけずに、マナーを守って、いろんなひととコミュニケーションをとっていきたいと、ようやく心から素直に思える歳になってきたような気がする。
 もちろん、遠慮のさじ加減に注意しながら。

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