essay

作り手の義務

 大林宣彦さんの「賢者の自由」というエッセイから。

 夢なら泥棒だって持つ。自由なら泥棒にだってある。人の物を自由に何でも盗めたらよいだろうなぁ、と考えるのが、泥棒の夢だろう。
 でも、それでは、世の中はどうなるか?
 酷い、不幸な世の中になるんでしょうね。
 本当に良い世の中とは、泥棒が他人の物を盗もうとする時、その自分に何かを盗まれた人の悲しみ、心の痛みを思いやって、自身の最大の夢である泥棒をするという行為自体を、自ら止めて行く力のある社会である事だ。
 つまり自分の夢よりも他人の夢を、自分の自由より他人の自由を、大切にする事なのですね。誰かの夢や自由を、泥棒しちゃあいけない。
 こんな事をよく話し合うのは、我が家の父君とであります。現在九十三歳。ずっと医者をやっておりました。若い時分は大学の研究室で将来を嘱望される医学徒。それが太平洋戦争に軍医として徴用され、十年近くのブランクの後に終戦後は尾道の開業医として、市民の為に尽した。けれども将来は研究者として立とうという夢も、それを夢見る自由も、あの戦争によって奪われた。
 それだけに、夢や自由というものを、大切にしたいのであろう。
 ――自由を、不自由に使ってこそ、人間じゃ、と父は言う。
 この言葉は、今表現者としてのぼくが、例えば映画を作る時などに、とても役立つ、自戒の言葉となっている。
 表現の自由と言いながら、破壊や殺戮や過剰なセックスシーンなどで、大ヒットさせようとお客の財布を開けさせる。これもやっぱり泥棒なんだろうね。だって結局は、人も世の中も、不幸にする。
 お客の心に、何か本当の喜びが蓄積されるような、智慧の果実のような、そんな映画を作らねばなるまい。良く利く薬のような、傷付いた心を癒し得るような。(後略)

 そういうことなんだよなぁーとつくづく思う。
 我々音楽を制作する人間にも、心にずしんと来る言葉である。
 音楽だうろが、映画だろうが、テレビ番組だろうが、コマーシャルだろうが、洋服だろうが、自動車だろうが、どんな消費財だろうが、どんな工業製品だろうが、とにかく、そういうことなんだよなぁー。
 それが本当のプロの仕事であり、時代を越えて残る仕事、物なんだろう。

 売れてなんぼ、という考え方ももちろんある。売れなければ何を言っても結局負け犬の遠吠え。
 しかし、売れれば何をしてもいい、売るために、つまり一時の儲けのためなら、どんなことをしても、どんな物でもいいという考え方はいかがなものか。それは結局、自分の首を締めることにもつながるわけで。
 流行を追いかけてはいけないということとも違う。これからの時代を作る子供たちに恥ずかしくないものを作りたいと思うし、作ってほしいと願う。

 フラットしていても、音程がずれていても平気なプロデューサーがいる。誰もが知っているその大物K氏が世の中に出した数多くのヒット曲は、若者たちにどのような影響を与えただろうか? ちょうどその頃からである。若い人たちとカラオケに行くと、みんな音程がフラットしているのである。テレビを見ても、ラジオを聞いても、カラオケに行ってまでも、気持ち悪くて気持ち悪くて、気が狂いそうだった。ようやく最近は、ずいぶんなりを潜めたが。

 これは一例であり、人によっても、その範囲は多少違うのだろうが、「何か本当の喜びが蓄積されるような、智慧の果実のような」音楽を、詞を、作っていきたいと思う。そう思う気持ちこそが大切なのだろう、作り手の義務なのだろうと、あらためて思う。
 やっぱり泥棒はしちゃあいけない。

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