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冷静と動揺のあいだ ― その2 ―

 田邉は大の車好きである。2年ほど前に念願のTVRサーブラウというイギリスのスポーツカーを購入した。V8エンジン、4,200CC、オールアルミのその車は、どんなに車のことを知らない人が見ても唸ってしまうほどの存在感を持つ。運転席はコックピットと呼ぶにふさわしく、低い車体から伝わる地面の振動は、ある意味では非常に心地よく、加速時にはからだがシートの背もたれに埋まってしまうかと思われるほどで、山道のカーブをまるでイルカが泳ぐようにすり抜けて行く。彼はこの車を中古で購入したと言うが、新車なら1,000万円は下らない。

 その車が、今、火に包まれている。
 落ち着け!
 宿舎の玄関はすでに鍵がかけられているはずだ。
 そうだ、部屋のベランダから外に出られる!
 急げ!
 走った。
 部屋の入口においてあった靴をつかみ取り、ベランダでスリッパを靴に履き替え、胸ほどの高さの木製の手すりを飛び越え、玄関前のロータリーへまわった。
 もはや車には近づけない。火は唸りをあげており、5メートルほど手前で僕は自分の顔が熱くなるのを感じた。
 田邉がいない!
 さっき廊下の窓から見た時は、運転席にいたはずなのに。
「たなべー! おーい、たなべー!」
 必死で探した。いったいどこへ行ってしまったんだ?
 その時だ。田邉がバケツをぶら下げて、ぶらぶらと近づいてきた。まるで散歩から帰ってきたご隠居のように。
「どうしたんだ。怪我はないか!」
「いやー、突然火が出てしまいましてー」
 笑ってる。こいつ、こんな時に笑ってる。それは冷静だからではない。どうすることもできずに笑ってしまっているに違いない。そのバケツで一体何をしようとしてたんだ。
「119番だ!」
 もはや一刻の猶予もない。鍵の閉まっている玄関の向こうに公衆電話が見える。
 田邉をせかして、再び部屋のベランダへ走った。高い手すりをよじ登り、靴を投げ出し、財布を鞄から引っ張り出し、寝ているみんなの上を飛び越えて部屋を横切り、スリッパをつっかけ、廊下を走り、公衆電話に飛びついた。
「テレフォンカード持ってますかー?」
 小銭を出そうとする僕の背中に、田邉がのん気な声をかけた。
「いや、ない」
 そんなのなんでもいいじゃないか。とにかく急がなければ。
「僕ありますよー」
「じゃあ、とにかく電話しろ」
「はい、消防署って何番でしたっけ?」
 ん? やっぱりこいつ気が動転している! 人はこんな時、心とは裏腹に笑ったり、のん気な態度をとってしまったりするのだろうか?
「119だ!」
 僕は、たまたま公衆電話の隣りにおいてあった宿舎のパンフレットをつかみ、ここの場所の住所を指差して田邉に示した。
「あ、もしもし、車から火が出てしまいまして・・・・・」
 どうやらつながったようだ。
 頼む! 消防車が来るまで、ガソリンタンクに燃え移らないでくれ! 建物に燃え移らないでくれ!

 その時だった。木村が廊下を走ってくるのが見えた。
「坂井さんの車が危ないです!」
 そうか、田邉の車の後ろに坂井の車が置いてあったのだ。
 電話をしている田邉を残して、再び廊下を走り、部屋に駆け込み、寝ている坂井を起こした。
「坂井! 坂井! 緊急事態だ。田邉の車が燃えている。車を動かしてくれ!」
「はい・・・・・えっ!」
 突然眠りの底で、理解を超えた事態を突きつけられた彼は、現実を把握するのにしばらく時間がかかった。が、とにかく大変なことが起きていると知った彼は、身長190センチのからだを揺らし、靴を履くのももどかしく、僕と一緒にベランダを飛び越え、玄関前へと走った。
「わーーーーっ!」
 その目で状況を確認した坂井が、何を言っているかわからない声をあげる。自分の車に乗るためには、燃え上がる田邉の車の横3メートルくらいの場所を通り過ぎなければならない。めらめらと音をたてる火の横を通ることに、一瞬躊躇した。190センチの大男でも、恐いものは恐い。いつ爆発するかわからない状況だ。だが、走るしかない。二人はとにかく坂井の車へ運を天に任せて走った。大丈夫だ。急いで坂井の車を移動。そして再び燃え上がる車の横を走り抜け、ベランダから部屋へころがり込む。田邉のいる公衆電話の場所へ走る。
 ふと玄関の自動ドアを見ると、ドアの下に鍵があった。縦になっている鍵を横にすると、開いた。その外にもうひとつ木のドアがある。これも鍵をひねると、開いた。外に出られた。なぜ早く気がつかなかったんだ。しかしこんなところで悔やんでいる暇はない。
 めらめらと燃え上がる車がそこにある。よし落ち着け! 消防車は呼んだ。こんな時、次に何をすればいいのか。気がつくと僕は田邉の肩に手をかけ、まるで自分に言い聞かせるように話していた。
「いいか、落ち着け。まず水を飲んで来い!」
 そうだ。宿舎の人に連絡をしなければ!
 と、ちょうどその時、管理の方が眠そうな目をこすりながら出てきた。
「こ、これ、な、なにやってるんですか?」
 誰だってこんな時、すぐには事態を飲み込めないであろう。車から突然火が出たこと、消防車を呼んだことを説明した。が、そのあとはやることが見つからない。数人の男たちは、呆然と遠巻きに火を見つめるだけであった。(つづく)

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