essay

冷静と動揺のあいだ ― その1 ―

 田邉は大の車好きである。2年ほど前に念願のTVRサーブラウというイギリスのスポーツカーを購入した。V8エンジン、4,200CC、オールアルミのその車は、どんなに車のことを知らない人が見ても唸ってしまうほどの存在感を持つ。運転席はコックピットと呼ぶにふさわしく、低い車体から伝わる地面の振動は、ある意味では非常に心地よく、加速時にはからだがシートの背もたれに埋まってしまうかと思われるほどで、山道のカーブをまるでイルカが泳ぐようにすり抜けて行く。彼はこの車を中古で購入したと言うが、新車なら1,000万円は下らない。

 あれはおととしの11月の終わり。我がバスケットボールクラブは、千葉県の安房小湊というところにある県民の施設を借り、2泊3日で恒例の合宿を行った。
 1日目は到着後、夕食を食べて、もちろん遅くまで宴会。だが2日目は、なんと朝の9時から夜の9時まで、昼食と夕食をはさんで練習をする。とは言え、決して強制して厳しい練習をするのではない。心からみんなバスケットボールが好きで、少しでも長い時間プレーしていたいのである。
 2日目の練習後、夜の10時からまた大宴会が始まる。プレーはおとなしいのに意外と陽気にしゃべるヤツ、プレーは激しいのに妙に気を使ってみんなの世話をやいているヤツ、毎年酒を飲んでべろんべろんになり記憶をなくすヤツなどなど、まるで学生時代に戻ったように、それはそれはみんな屈託なく盛り上がる。

 いつも楽しい時間はあっという間に過ぎてしまう。夜中の2時過ぎ、ひとり、またひとり宴会場から姿を消して眠りに着くヤツが多くなってきた頃、それではそろそろということでお開きとなった。僕は歯磨きとトイレを済ませてから、枕元においた携帯電話の時計が2:58を示していること確認して、目を閉じた。まだまだ起きていて、みんなと話をしていたいと思っていたものの、やはりからだは疲れている。すぐに深い沼の底に引き込まれていく快感に身を委ねた。
 薄れていく記憶の中で、夕方から具合が悪くなって、宴会にも出ずにずっと寝ていた木村がトイレに起きたのを感じた。まだ気分が悪いのだろうか? 元々眠りの浅いヤツだから、長い夜になっているのだろうか? と考えながら、僕は深い眠りに落ちていった。

「澤地さん、澤地さん!」
 2時間も寝ただろうか? それとももう朝なのか? いや、外はまだ暗い。ん? トイレに起きた木村が帰ってきたところらしいから、まだものの3分と眠っていなかったのだろうか?
「澤地さん、澤地さん! 大変です。田邉さんの車から火が出ているみたいなんですけど・・・」
「えっ? えーーーーーーーーっ!」
 眠りへの入口で、思い切り頭を殴られた僕は、死にものぐるいで現実の世界へからだを呼び戻し、急いで部屋を飛び出して、廊下を走った。田邉の車がおいてある宿舎の前のロータリーが、廊下の窓から見えてきた。
 なんと、車のボンネットあたりから火が出ているではないか。故障で煙が出ているという程度のものではない。2、3メートルの真っ赤な火が燃え上がっている。しかも、そんな車の運転席に田邉が座って、さかんにあちらこちらをいじっているではないか! 僕は自分の目を疑った。(つづく)

Copyright (C) 2009 Ryu Sawachi. All Rights Reserved.